もともと、企業団の給水区域一帯は農村地帯として知られていました。人々は川からの汲み水や湧き水、ためた雨水などで米や野菜などをつくって暮らしを支えており、それほど深刻な水不足ではなかったのです。しかし、不安がなかったわけではありません。降水量は県下でも少なく、日照りが続くと凶作への不安や恐怖から水の確保をめぐって争いが起きることも。さらに、昭和30年ごろから工業用水への利用で大量の地下水が汲み上げられたため、数多くあった井戸も次第に枯れてしまい、この地域一帯は水不足に悩まされるようになりました。
この地域からさらに南に進んだ知多半島の水不足はとくに深刻で、突端の師崎町(現南知多町師崎)では、「ハマグリ水」といわれる塩分を含んだ白い濁り水がようやく出る1ヵ所の共同井戸が町民の命になっていたそうです。農業用水は皿池(水深が浅いため)と呼ばれる小さなため池が頼り。少し日照りが続けばすぐ水不足が生じていました。そこで、知多郡八幡村に住む久野庄太郎が木曽川の水を知多半島へ引いてくる計画を立てました。それが、現在企業団が受給している水の約9割を占める「愛知用水」誕生のきっかけです。
そのころの日本はまだ戦後まもない時で、資金や技術もなく、現実は不可能に思われました。しかし、人々の水を求める気持ちは強く、計画の賛同者はまたたく間に増えました。当時、愛知郡豊明村(現豊明市)出身で農学校の先生をしていた浜島辰雄氏もその一人。そんな彼らの願いは国を動かし、ついに建設に向けて具体的な行動が開始されたのです。昭和30年、愛知用水公団がつくられ、工事が始められました。愛知用水の施設は木曽川の上流にある牧尾ダムや東郷町にある愛知池、三好池など。工事に際しては世界銀行からお金を借りるなどの工面をし、日本で初めて大型土木機械を輸入。5年余りという驚くべき短期間のうちに完成されました。
愛知用水の完工と用水の晴れの門出を祝う通水式が昭和36年9月30日、愛知用水取水口(兼山頭首工)で挙行され、その様子はテレビでも全国中継されています。午前11時40分に3門のゲートが開き、しぶきを上げて流れ込む清らかな木曽川の水。その瞬間、水路の周辺に集まってきた人々は、歓声をあげました。
名古屋市東部の市町では、昭和40年代後半からさらに人口が増加し、水の使用量が急増しました。そこで、豊明・日進・東郷・長久手・三好の1市4町が協力して、昭和49年に「愛知中部水道企業団設立準備委員会」を設置。翌年には愛知中部水道企業団設立許可(愛知県知事)、経営認可(厚生大臣)を取りました。そして、昭和50年4月1日に業務が開始されました。
企業団の設立は、愛知用水(木曽川水系)から水を得ていた地域と西三河用水(矢作川水系)を利用していた地域を一つにまとめるという壮大な計画でもありました。異なる地域を一体化するのは大変難しい取り組みでしたが、そのおかげで県内で初めて2水系を持つ、緊急時等にメリットの大きい水道事業となったのです。
昭和55年にはより効率的に配水できるよう、集中管理無線テレメータシステムを完成。その後、昭和61年には名古屋市との緊急連絡管布設工事竣工と、着々と施設を整備し、質・量ともに十分な水を安定して届けられるようになりました。
さらに平成12年には水源である木曽川上流地域の現状を認識し、水源地域を守り育てる取り組みとして「水源地環境整備促進事業助成金」制度を創設。一方、長野県の木曽広域連合では、地域間交流の推進を水・森林、街道をテーマに計画していたことから、木曽川をきずなとした「交流のきずな」を結び両地域の一体化を約束しました。広域的な上下流域組織が共に手を携える事業は他に例がなく、今後に期待が寄せられています。
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